Mmtarou’s blog

育児ネタ多め。出産・育児記憶が薄れないように残したい!

二人目の妊娠と出産②

我が家の二人目の妊娠・出産は敗北に終わりました。

 

が、悲しんでいる時間なんてありませんでした。

 

死産になったので、火葬の手配やら死産の届け出やら、いろいろな業者がきて手続きに追われました。

 

火葬場へ娘を運ぶ直前に、死産になった娘を妻と一緒に抱かせてもらいました。ひとけのない病院の地下だったと思います。かわいらしい?洋服を着させてもらっていたと思います。おそらく妻は写真を撮ったのだと思うのですが、自分はみたことがなく、妻に聞いたこともありません。話したこともありません。

 

ひっそりとした場所、病院の裏側から娘を乗せた車(バンのようなもの)を妻と一緒に見送りました。このシーンは強く記憶に残っています。


数日後、自分は有休をとり、妻と長男と一緒に娘の火葬に行きました。火葬場は駅からタクシーでけっこう離れた場所にあって山の中のような場所でした(当たり前ですが)。火葬場が開くまで外で待たされることになり、この時、真冬だったのでとても寒く、この寒さが余計につらく感じたのを覚えています。

 

長男はまだ2歳ぐらいだったので状況を理解しておらず、火葬場のホールに入ると走り回って喜んでいたのを記憶しています。火葬の直前に棺桶にお菓子や長男が使っていたおもちゃを入れました。長男が使っている積み木の一部を入れました。ただ、みんなで最後に見送ったときは、長男も空気を察したのかずっと黙っていました。なにかは感じたのかもしれません。

 

あと、1週間はやく子宮頚管を早く縛っていれば、状況は変わっていたかもしれない、と医師の言葉を思い出しました。運命(人の命)とはそういうものかもしれません。

 

火葬が終わり、遺骨を拾いました。22週だったと思いますが、ちゃんとした骨が残っていました。太ももの大腿骨だったのでしょう。


遺骨を入れた骨壺を入れて家に帰りました。

 

マンションにつくと、私たちが喪服をきていたのが目立ったのか(救急車も何度かよんだのもあり)、マンションの管理人が寄ってきてねほりはほり聞いてきました。妻は淡々と死産した、火葬したとか説明してましたが、これは正直つらかったんじゃないかと思います。

 

 

 

二人目の妊娠と出産①

二人目の妊娠・出産は、結論から言うと、死産になりました。

 

一人目の出産時に大量出血したので、子宮を休ませることもあって妊活は1年くらい開けていました。運よくまた妊娠することはできましたが、一人目と同じく重度の悪阻で、妻はトイレを抱いて寝るような状態でした(保育園の送り迎えはやってたはずですが、このころどうやって長男の育児していたのか、なぜか自分には記憶がありません)

 

悪阻から少し回復して、ある時、妻が「子宮から何か出てきた」と慌ててリビングにきて、病院に電話していました。長男もつれてタクシーで病院に行き、外で待っていると、妻から電話があり「ちょっともうだめそう」みたいな感じで医師に呼ばれました。

 

医師からは、「臍の緒で頭がひっかかって、赤ん坊が物理的に止まっている。こんな状態、今までみたことがない」と説明されました。そのまま緊急入院になり、ダメ元ですが子宮頚管の縫合手術をしました。(何とか羊膜?は破れずに済んだようでした)

 

ダメ元の緊急手術だったので、医師から以下の選択肢を提案されました。

① 絶対安静として、妊娠継続を目指す(早産で障害児になるリスクを覚悟する)
② 人工中絶をする(これをやるなら法律があって、22週までに決めること)

 

時間がなく困りました、きれいごと抜きで妻と話をしましたが、やはり②は抵抗や罪悪感が強く、①を選びました。

 

①を選んだものの、長男の育児があったので無理をいって退院させてもらい家で安静という生活をしていたのですが、妻の体調がずっと悪くおなかの張りがあったりで、何度か夜に緊急でタクシーで長男を連れて病院に行ったのを記憶しています。睡眠不足が続きました。体調は悪いが、おなかの子供は問題ない、という医者の判断が続きました。

 

22週をちょっと超えたあたり?の夜に、妻が突然高熱を出して念のためその夜だけ入院(子供異常なし)という形になり、長男と家に帰りました。

 

その次の朝、長男を保育園に連れて行ってる最中に、妻から電話があり「陣痛がきた、もう終わった」みたいな連絡があり、そのまま分娩室に行きました。


そのあと、医師から電話があり、「子宮からの出血がひどくて母体保護優先で緊急手術します」とそれだけ説明されました。

 

長男の出産時に大量出血して生死を彷徨って記憶が戻ってきました。生まれた子もどうなったかわからず。コロナ渦で病院にもいれてもらえず、電話しても担当の医者は別のオペで状況がわからずで、その日はひどく混乱していました。仕事がまったく手につかなかったのを覚えています。

 

夜になってようやく病院に入ることを許され、医師からようやく説明を受けました。
「急に陣痛がきて、縛っていた子宮頚管を強引に赤ん坊が出てきてしまったので、子宮頚管が避けて大量出血して緊急手術した(またカテーテルによる止血)」
「危ないから今後の妊娠はほんとうによく考えたほうがいい、もう一度チャレンジしたいのなら、別の方法で出産を考えるべき(専門用語で詳しく覚えてない)」

 

そのあと、ICUに隔離されている妻に会いに行くことを許されました(長男はICUに入れず、隔離され泣いていたのを覚えています)。生まれた子は死産なり、さらにまた大量出血して生死を彷徨った妻をみるのはきつく、正直かける言葉思いつかなかったです。
(体が冷えないようにか、包帯みたいなもので体を巻かれていたような気がします。)

 

しかし、妻はテンションがとても高かったです。出産前は相当体調が悪かったようで(赤ん坊が重度の感染を起こしていたため)、出産後は嘘のように体調が回復したと元気になっていました。生死を彷徨い、なにかアドレナリンのようなものが出たのかもしれません。輸血を急げとか、そういうシーンは妻は覚えていたようです。

 

こうして我が家の二人目の妊娠・出産は敗北に終わりました。

一人目の妊娠と出産

育児の記憶がどんどん消えてしまっています。もっと写真とかとるべきでした。

 

恥ずかしながら、3、4年経つと、どんな感じでミルクをあげていたか、風呂に入れていたか、どんなふうにつかまり立ちしてたのかほとんど覚えてないです。ただ、トラブルの多かった妊娠と出産は記憶に残っています。

 

結婚後3年ほどで妊娠しました(これは運がよかったのかもしれません)が、すぐに妻は重度の悪阻になり、入院していました。入院前もほとんどトイレにしがみついて生活してたような状態でした。これは男にはわからないつらい状態だったと思います。

 

つわりが落ち着いた後は、検診で子宮頚管が短いということで、すぐに子宮頚管を縛る手術をして入院していました。なんとか出産日近くまで持ちこたえました。

 

出産日あたりに?縛っていた糸を外して、陣痛促進剤を打って、吸引分娩をやってなんとか長男が生まれました。生まれた後、妻は元気だったのですが、すぐに出血のせいか立てない状態になっていました。

 

出血が全く止まらない、どこから出血してるかわからないということで緊急の輸血や縫合手術がはじまり、出産の翌日くらいまでずっと輸血をした状態が続きました。医者から輸血してももう埒があかないから、「子宮をとる必要があるかもしれない」、「念のため両親を呼んでくれ」と言われて大きな総合病院に移動しました。たしか出血は10リットル超えていたし、電話した両親はパニック状態になって急いでICUまで来たのを覚えています。

 

あの時、人生ではじめて救急車に乗りました。出血のせいか妻の手が異常に冷たくてほんとに死ぬんじゃないかと思ったのを記憶しています。この時、自分自身、出産した長男のことは完全に忘れてしまっていたと思います。救急隊員?に住所を聞かれても答えられなかった自分もパニックだったのだと思います。

 

運よく総合病院にカテーテルの止血?を専門の救急医がいて、なんとか子宮をとらずに出血がとまったのですがICUで数日間、普通病棟?で1週間ほど妻は入院していました(ICUでは痛々しかった姿でした)。自分は仕事があったので、長男はどうすることもできず10日間ほどは病院での保育になりました。たしか、母乳はもっていったのを覚えています。

 

医者からは出血の原因はわからない、ごくまれに子宮からすごい出血する体質の人がいるから二人目はよく考えたほうがいいと忠告されました。一方、妻はまだ生む気はあると意欲的だったのを覚えています。

 

無事に生き延びたのですが、ほんと出産は命がけだと、ほんと恐ろしかった。

なんともない人はいっぱいいるんでしょうけれど。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

母親も幼児とは一心同体なのか

育児中のひとり時間って大事といいますが、父親と母親で違うんでしょうか?

 

久しぶりに妻が子供2人連れて、妻の実家に帰りました。

 

しばらくは一人での生活です。一人で夜過ごすのは2、3年ぶりな気がします。

自分はテレビみないのであまりに静かすぎて異様な感じがします。仕事で疲れてると夜は一人になりたいと思うことがよくあります。

 

たまに妻は一人になりたいと言って、近くのドトールとか行って息抜きしてもらってるんですが、数時間するとやっぱ子供が気になるとか言ってすぐ戻ってきたくなるそうです。

 

幼児?は母親と一心同体と感じているようですが、ほんとうは母親も幼児とは一心同体なのかもしれません。母親はやっぱり父親と違うのかもしれません。

黒ビールが好きです。

 

久しぶりのひとり時間です、黒ビールごちそうさまでした!

 

 

 

 

 

妊娠と出産の過酷さ

我が家の妊娠と出産は過酷だったと自分(夫)でも思います。

忘れてはいけないこともあるので、おいおい書き残していこうと思います。

 

ざっくりこんな感じです。

①一人目妊娠 → 子宮頚管無力症で入院 → 出産時大量出血でICU隔離(出産)

②二人目妊娠 → 子宮から出てきて緊急手術 → 重度感染で破水 → 死産

        (死産の時、子宮頚管が避けて大量出血、またまたICU隔離)

③三人目妊娠 → 子宮頚管縛りまくり → 絶対安静 → 帝王切開で出産  

 

一人目、二人目で大量出血で生死をさまよったので、医者から次は勧めらませんでした(同じことが起こる可能性がある)。リスク覚悟で三人目にチャレンジしました。三人目の時は、子宮頚管を縛れるだけ縛って、充填物(リングみたいなもの?)も入れて、こんなことやった例はほとんどないという形でチャレンジしました。

 

二人目の娘は、まだ呼吸が十分できない状態で(22週くらいだったと思う)、生まれてきたその日に亡くなりました。これが一人目だったら立ち直れなかったかもしれません。まだ一人目の長男が2歳になるかぐらいだったので育児の忙しさもあり、その隙間を埋めてくれていたような気がします。

 

今、ここでこれを書いているのも、ようやく死産のことに向き合えて立ち直れてきたからかもしれません。

 

現代の医療にはほんとに感謝しています。もし江戸時代に出産していたら妻は命を落としていたでしょう。子供たちもこの世に存在していなかったと思います。

 

時間をみつけ、記憶が残っているうちにいろいろあったことを書き残すことにします。

 

 

 

              

 

保育園をやめた理由

長男は以下の理由で保育園をやめました。

 

① 給食と昼寝の時間強制 → 自由度がなくまるで軍隊?

② 怒る先生 → おびえていた長男

③ 長時間の保育時間(7:30~18:00)→ 長すぎ

 

どうも長男が保育園に行かなくて困ったなと夫婦で悩んでいて、結局やめました。

 

やめた後、ばったり近所であった保育士の先生にきいたらいろいろ答えてくれたのでわかりました。長男にも徐々に答えてくれるようになりました。4歳でもなんとなく理由を言うのでコミュニケーションとれるんだなと。

 

やめた後わかったのが、保育園(特に大規模だと)は、①なんてやっぱり一日の作業が時間単位で決まっててまるで子供にとって軍隊のように思えるんじゃないかと。昭和時代の自分にとって怒る先生なんて普通だと思って見過ごしてましたけど、子供にとってかなり恐怖だったのかもしれません。保育園が全部そんなことはないと思います。

 

あと、③の保育時間なんて長すぎだなと、、並みの社会人より働いてると一緒ですよね(笑)昼過ぎになると、長男はずっと下駄箱の前に座って親がくるのを待っているのも何度も聞いていました。時計なんて読めないはずなのに。

 

一方、幼稚園に転園すると、自由度がほんとに高いので長男は喜んで行くようになりました。弁当、給食も残さず食べるようにはなりました。幼稚園を勧めるわけでもないです。単に長男が集団行動の不適合者だったのかもしれません。

 

ただ、あわない保育園はやめてよかったと思います。

 

子供の意思を尊重してあげるのが親の仕事なんでしょうかね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

乳児の卵アレルギー

乳児の卵アレルギーは大人になると9割は治る?

 

やっぱり娘(生後7か月)は卵アレルギーなのか。

 

部屋に落ちてたウエハースのお菓子の袋をかじっているだけでまた湿疹がでてきててんやわんやで。みると、ウエハースには卵が含まれていると表記。

 

大人になると治るという情報みたので自分はなおるだろうと思ってても、妻のほうはとても神経質になって部屋の掃除機かけまくり。

 

アレルギー物質は肌から入ってくるからワセリンはちゃんと塗るのが大事らしいとか。

湿疹記録

 

でも、困ったな。このまま卵だめならケーキとか全部だめっぽいな。

 

経過観察して記録を残しておこう。